黄泉の国
本当に多く聞かれるようになりました。「人は死んだら、どうなりますか?」「体って、どんな変化を起こしますか?」という質問。
特に、自身の家族や親しい方の死を経験され、対面して、「どうして、こうなったのかな?」と、死後の変化を見て、記憶をずっと引っ張っていて、答えを探している方とのご縁も、多くあります。全国各地で発生している災害に於いて、ご家族を亡くされた方からも、多く声を掛けていただきます。講演の後のサイン会や握手会でも、お一人お一人の記憶に対しての、その解説について、お話しをさせていただくことも、ずいぶん多くなりました。
人の体が死を迎えると、どうなるのでしょう?
有名なところでは「九相図(くそうず)」が挙げられると思います。有名な仏教絵画です。修行僧の教育に使われたとも伝えられます。どんなに美しい女の人でも、息を引き取ると死後の変化を起こして、土に還る。そのリアルな遺体の変化を、九つの絵に記し、記録した絵です。
死の現場を知る私としては、この絵を描いた人は、本当に見て描いているということが分かります。この変化を直視して描けるくらいの、何か目的があったのだろうと思います。
昔は、遺体が野ざらしでした。道端に遺体があったと伝えられる時代があります。飢饉や、災害、流行病(感染症)など、時代の中で大勢の人が亡くなった時代もありました。遺体が放置されること事態が衛生上非常に悪く、生活に支障を来たすということで、火葬の文化が生まれていったと言います。九相図は、リアルに人が土に還るまでを、見事に記していると思います。
注目していただきたいのは、形はもちろん、色も人の心を左右します。通常の人の腐敗は、緑からその色が深くなり、最後に黒になり、白骨化という白が到達点です。その骨が、時を経て土に還るのが、自然の摂理です。
通常の生活の中では知り得ないという意味も含めて、初めて死後の変化を目にしたとき、この怖さを含む死後の変化のリアルさが、遺された人の心の安定を図るために信仰心を深め、祈ること、偲ぶこと、神仏に悲しみを委ねることの意味を持たせていたのかもしれません。昔は、生活の中に「死」の存在とその意味が、きちんとありました。
あの世の存在も、そうした遺された人の希望の中から、求められ語られるようになったのかもしれません。
あの世は日本神話の中では「黄泉の国」と語られます。黄泉の国は、あの世のこと。以下のようなお話しが伝わります。
火の神子を産んだイザナミ(妻)、火傷が原因で亡くなり、黄泉の国へ逝きました。イザナギ(夫)はとても悲しくて、毎日泣いていました。黄泉の国とつながる大きな洞窟。進んで行くと、この世とあの世(黄泉の国)を一枚の大きな岩が塞いでいます。イザナギが、岩の向こうにいるイザナミに言いました。
「会いたい」
もちろん、夫に会いたい妻のイザナミは、会えるように神様にお願いするので、岩の前で待っていてくれと、愛する夫に伝えました。
妻のイザナミは、黄泉の国の食べ物(桃と伝えられる)を食べてしまったことで、黄泉の国の人になってしまったことを、夫のイザナギに伝えます。
しばらく待っても、イザナミが戻って来る気配が無く、早く会いたいと待ちきれない夫のイザナギは、大きな岩を動かしてしまいます。(古文解読に諸説あり)
そのとき、妻のイザナミが夫のイザナギの前に現れ、「待ってと言ったのに!」と、怒り泣き叫びます。(ここから黄泉の国の中での色々なことが起こる)
妻のイザナミの体にはウジ虫がわき、肉が融け落ち、あの美しさは見る影もなく、形相が全く違うものだったという日本神話の中での話しがあります。
ここでも、人が死を迎えると、人は誰でも死後変化を起こすということを、伝えているのだと思います。
詳しくは、古事記や日本書紀などの日本神話を読んでいただくと良いと思いますが、おおよそ、その様な話の内容があります。
宗教学では最も大切な、当然誰でも起こす死後変化と、人の心情との相互関係が大切にされている訳ですが、それは最も最愛の家族を亡くした方の心情が求めるものに、死生観としてそれぞれの答えが出るように道しるべになっているのだと思います。
ウジ虫がわいたイザナミが、本当にイザナギに会いたいと思った時に、私がご縁をいただいたなら、きっと叶える方向で技術を駆使したと思います。
現代で考えれば、イザナミの様子からすると、本当に火傷なのかどうか、病死とは考えにくいこと、ウジ虫がわいていて時間の経過が予測されること、異状死と判断されれば死因の特定を行うため、警察の検視を受けてからの、復元という形になるかと思います。
警察検視からスタートしなかったとしたら、イザナミはお話し出来ていますから、生体?でも、全体にウジ虫がわいているから死体?イザナミは生体なのか、死体なのか、まずはそこから知らなければならないと思います。なぜかといえば使う薬が全く違うので。復元したとして、イザナミが生き返る訳ではないことを、そして一緒に過ごせるおおよその期間も、伝えなければならないと思います。
*生体の対義語が死体。通常の生活の中では、死体は御遺体と呼称される。
通常の復元とは異なっているのは、亡くなった人がコミニュケーションが取れているということ。なので、永遠には持たない肉体のこと、その肉体に魂がもう入ることが不可能なこと、そこでもう一度来るお別れの後に、亡くなった本人にも、悲嘆の援助をしなければなりません。
「生がスタート、死がゴール」として例えたら、ゴールの段階からまた、実は又新たなスタートがお互いにあることを伝えること。
始まりがあれば、終わりがある。それを知った上で、今を過ごせるようにコーディネートとセッティングをしなければいけないこと。
イザナギが希望した「会いたい」という欲求は、もしかしたらイザナギにとって、生きるために必要な欲だったのかもしれません。でも、目の前の欲が叶ったら、次の欲求、次の欲求となっていく、人が持つ当たり前の心情にこれからどのように向き合われるのかを、確認しなければならないのかもしれない。とまぁ、色々考えてみる訳です。これは、現実ではないので、あくまでも私の想像?もしかしたら、妄想?なのでしょうが・・・。
人は死を迎えると、至って普通に自然現象である、死後変化を起こします。私も誰も知らないところで死を迎えたとしたら、間違いなくそうなります。人が起こすその変化に対して、人は様々に自分の世界観の中から、悲しみと向き合います。死後変化と人の心情は相互関係にあります。なので、遺体管理を含めたお手当という処置を、求められます。
「人の体は死んだらどうなるか」の情報を得たとき、その内容に含まれるいのちの意味を、知ってもらえたらと思います。故人の人生から、大切な宝物を見付けてもらえるように、そのために、お手当をさせていただいています。
納棺というお別れのお手伝いをさせていただいて、その中に込められた、このように様々な昔の人たちのむかし話や、その気持ちが、その様々ないのちの物語が、生きるために必要な、実はとても大切なキーワードとエネルギーになっていることが多々あります。
納棺のとき、むかし話を夢中で語ってくださるお年寄りの顔が、どんどん私の顔に近付いて来た時にご家族が、
家族「ばぁさん、笹原さんにチューしないんだよ!」
お年寄り「なんで!(笑)うーー(私に口を近付ける真似)」
家族「なんでぇ〜〜って⁉︎」
私「かまいませんよ(笑)」
と、皆さんと笑った時間がありました。故人がこの世に存在してくれる最期の時間の中では、故人が笑うことが好きだった想い出に包まれる時間があります。人のいのちは、誰かの記憶がつむいでくれるもので、死は生きる意味をその方それぞれの人生の中から、色々と寄り添って、実は教えてくれるものかもしれません。
然るに、その意味や価値に気が付くか、付かないかは、自分自身の向き合い方次第なのかも、しれませんね。