2016年6月29日

怖いはなしシリーズ16

黄泉の国

本当に多く聞かれるようになりました。「人は死んだら、どうなりますか?」「体って、どんな変化を起こしますか?」という質問。

特に、自身の家族や親しい方の死を経験され、対面して、「どうして、こうなったのかな?」と、死後の変化を見て、記憶をずっと引っ張っていて、答えを探している方とのご縁も、多くあります。全国各地で発生している災害に於いて、ご家族を亡くされた方からも、多く声を掛けていただきます。講演の後のサイン会や握手会でも、お一人お一人の記憶に対しての、その解説について、お話しをさせていただくことも、ずいぶん多くなりました。

人の体が死を迎えると、どうなるのでしょう?

有名なところでは「九相図(くそうず)」が挙げられると思います。有名な仏教絵画です。修行僧の教育に使われたとも伝えられます。どんなに美しい女の人でも、息を引き取ると死後の変化を起こして、土に還る。そのリアルな遺体の変化を、九つの絵に記し、記録した絵です。

死の現場を知る私としては、この絵を描いた人は、本当に見て描いているということが分かります。この変化を直視して描けるくらいの、何か目的があったのだろうと思います。

昔は、遺体が野ざらしでした。道端に遺体があったと伝えられる時代があります。飢饉や、災害、流行病(感染症)など、時代の中で大勢の人が亡くなった時代もありました。遺体が放置されること事態が衛生上非常に悪く、生活に支障を来たすということで、火葬の文化が生まれていったと言います。九相図は、リアルに人が土に還るまでを、見事に記していると思います。

注目していただきたいのは、形はもちろん、色も人の心を左右します。通常の人の腐敗は、緑からその色が深くなり、最後に黒になり、白骨化という白が到達点です。その骨が、時を経て土に還るのが、自然の摂理です。

通常の生活の中では知り得ないという意味も含めて、初めて死後の変化を目にしたとき、この怖さを含む死後の変化のリアルさが、遺された人の心の安定を図るために信仰心を深め、祈ること、偲ぶこと、神仏に悲しみを委ねることの意味を持たせていたのかもしれません。昔は、生活の中に「死」の存在とその意味が、きちんとありました。

あの世の存在も、そうした遺された人の希望の中から、求められ語られるようになったのかもしれません。

あの世は日本神話の中では「黄泉の国」と語られます。黄泉の国は、あの世のこと。以下のようなお話しが伝わります。

火の神子を産んだイザナミ(妻)、火傷が原因で亡くなり、黄泉の国へ逝きました。イザナギ(夫)はとても悲しくて、毎日泣いていました。黄泉の国とつながる大きな洞窟。進んで行くと、この世とあの世(黄泉の国)を一枚の大きな岩が塞いでいます。イザナギが、岩の向こうにいるイザナミに言いました。

「会いたい」

もちろん、夫に会いたい妻のイザナミは、会えるように神様にお願いするので、岩の前で待っていてくれと、愛する夫に伝えました。

妻のイザナミは、黄泉の国の食べ物(桃と伝えられる)を食べてしまったことで、黄泉の国の人になってしまったことを、夫のイザナギに伝えます。

しばらく待っても、イザナミが戻って来る気配が無く、早く会いたいと待ちきれない夫のイザナギは、大きな岩を動かしてしまいます。(古文解読に諸説あり)

そのとき、妻のイザナミが夫のイザナギの前に現れ、「待ってと言ったのに!」と、怒り泣き叫びます。(ここから黄泉の国の中での色々なことが起こる)

妻のイザナミの体にはウジ虫がわき、肉が融け落ち、あの美しさは見る影もなく、形相が全く違うものだったという日本神話の中での話しがあります。

ここでも、人が死を迎えると、人は誰でも死後変化を起こすということを、伝えているのだと思います。

詳しくは、古事記や日本書紀などの日本神話を読んでいただくと良いと思いますが、おおよそ、その様な話の内容があります。

宗教学では最も大切な、当然誰でも起こす死後変化と、人の心情との相互関係が大切にされている訳ですが、それは最も最愛の家族を亡くした方の心情が求めるものに、死生観としてそれぞれの答えが出るように道しるべになっているのだと思います。

ウジ虫がわいたイザナミが、本当にイザナギに会いたいと思った時に、私がご縁をいただいたなら、きっと叶える方向で技術を駆使したと思います。

現代で考えれば、イザナミの様子からすると、本当に火傷なのかどうか、病死とは考えにくいこと、ウジ虫がわいていて時間の経過が予測されること、異状死と判断されれば死因の特定を行うため、警察の検視を受けてからの、復元という形になるかと思います。

警察検視からスタートしなかったとしたら、イザナミはお話し出来ていますから、生体?でも、全体にウジ虫がわいているから死体?イザナミは生体なのか、死体なのか、まずはそこから知らなければならないと思います。なぜかといえば使う薬が全く違うので。復元したとして、イザナミが生き返る訳ではないことを、そして一緒に過ごせるおおよその期間も、伝えなければならないと思います。

*生体の対義語が死体。通常の生活の中では、死体は御遺体と呼称される。

通常の復元とは異なっているのは、亡くなった人がコミニュケーションが取れているということ。なので、永遠には持たない肉体のこと、その肉体に魂がもう入ることが不可能なこと、そこでもう一度来るお別れの後に、亡くなった本人にも、悲嘆の援助をしなければなりません。

「生がスタート、死がゴール」として例えたら、ゴールの段階からまた、実は又新たなスタートがお互いにあることを伝えること。

始まりがあれば、終わりがある。それを知った上で、今を過ごせるようにコーディネートとセッティングをしなければいけないこと。

イザナギが希望した「会いたい」という欲求は、もしかしたらイザナギにとって、生きるために必要な欲だったのかもしれません。でも、目の前の欲が叶ったら、次の欲求、次の欲求となっていく、人が持つ当たり前の心情にこれからどのように向き合われるのかを、確認しなければならないのかもしれない。とまぁ、色々考えてみる訳です。これは、現実ではないので、あくまでも私の想像?もしかしたら、妄想?なのでしょうが・・・。

人は死を迎えると、至って普通に自然現象である、死後変化を起こします。私も誰も知らないところで死を迎えたとしたら、間違いなくそうなります。人が起こすその変化に対して、人は様々に自分の世界観の中から、悲しみと向き合います。死後変化と人の心情は相互関係にあります。なので、遺体管理を含めたお手当という処置を、求められます。

「人の体は死んだらどうなるか」の情報を得たとき、その内容に含まれるいのちの意味を、知ってもらえたらと思います。故人の人生から、大切な宝物を見付けてもらえるように、そのために、お手当をさせていただいています。

納棺というお別れのお手伝いをさせていただいて、その中に込められた、このように様々な昔の人たちのむかし話や、その気持ちが、その様々ないのちの物語が、生きるために必要な、実はとても大切なキーワードとエネルギーになっていることが多々あります。

納棺のとき、むかし話を夢中で語ってくださるお年寄りの顔が、どんどん私の顔に近付いて来た時にご家族が、

家族「ばぁさん、笹原さんにチューしないんだよ!」

お年寄り「なんで!(笑)うーー(私に口を近付ける真似)」

家族「なんでぇ〜〜って⁉︎」

私「かまいませんよ(笑)」

と、皆さんと笑った時間がありました。故人がこの世に存在してくれる最期の時間の中では、故人が笑うことが好きだった想い出に包まれる時間があります。人のいのちは、誰かの記憶がつむいでくれるもので、死は生きる意味をその方それぞれの人生の中から、色々と寄り添って、実は教えてくれるものかもしれません。

然るに、その意味や価値に気が付くか、付かないかは、自分自身の向き合い方次第なのかも、しれませんね。

2016年6月23日

お知らせです

一般の方向けの講演が、なかなかなくて、教えて欲しいと多数お声を掛けていただいても御案内出来ず、すみませんでした。

一般の方向けの講演の御案内です。整理券が必要になりますので、チラシのお電話番号先の、北上市高橋葬儀社さんまで、お問い合わせ・お申し込みくださいませ。

皆さまにお会いできますこと、楽しみに致しております。道中、お気を付けてお越しくださいませ。






2016年6月22日

伊那中央病院労働組合様企画講演会

以前、長野県の看護協会さんでお話しをさせていただいたご縁から、この度のご縁になりました。同じ内容で、とのことでしたので、90分お時間をいただき進めました。

院内外から多くの皆さんが集まられ、熱気もすごくて、眼差しも刺さってくるくらい真剣に聴いていただいたと思います。

長野県は過日に、御嶽山の噴火もありましたので、当時から現在に至るまで、様々な業種の皆さま含め、ご縁の続いている災害です。

講演会終了後の控え室には、訪ねて来てくださってお話をしてくださる医療者の方も多く、相談を受けたり、提案したり、話し合ったり、お持ちいただいた本にサインをしたりと深いお話しをさせていただきました。

病院へ講演会に伺うことは、スケジュールもなかなかご希望の日でお受け出来ないこともあり、実はとても珍しく、その分、お一人お一人の立ち位置での頑張りを、教えてもらえた貴重な時間でもありました。

全国各地を、回らせていただくことが多くなった今。医療者の方に、よく相談される内容があります。

「忘れられない、患者さんがいる。」

伺えば、そのご縁をきっかけに人生が大きく変わって居られます。

「人と出会うということは、きっとそういうことなんだと思います。」

と、お伝えします。人生を変えるくらいの、ご縁だった。=心で深く感じる関わりがあったからこそ、考える時間をいただいた。(それまで、ここまで深く考えたことがなかった)とも言えるかもしれません。人との出会いは良くも、悪くも、人生が大きく変わることがあります。自分に責任を持ちながら進み、その後意味や答えを探す旅が始まるのも、そういうきっかけだと思います。

「人は二度死ぬと、言われています。一度目は、肉体の死。二度目は、人の記憶から消えたとき。(コリン・ウィルソンの名言)

私たち死に携わる立ち位置の人の役割の中には、二度死なせてはいけないという意味も、もしかしたら持ち合わせているのかもしれません。だから、終わられなければ(忘れなければ)、終わらない。忘れれば、終わらすことも出来る。

記憶に遺り、実はいつでも支えてくれる存在を、自分流に大切にする関わりが出来れば、きっとその大切な人と、共に生きる道が見えてくるのかもしれません。

大切だったから、後悔します。そのくらい、自分も支えてもらっていた証拠なのかもしれませんよね。」

あくまでも、私の経験からのお話しです。私にも、相当苦しんだ時間がありました。本当に苦しかった。そこから出した、今の答えです。看取りから入らせていただくご縁もあるのですが、生きてるときにお会いした記憶と、色々向き合う時間を、私は作ります。自分の気持ちに問い、想い出から答えを探します。顔や態度には一切出しませんが、私もたくさん嘆きます。

出会えたからこそ、私にも遺してもらえたのがありました。大切な想い出の中には、その方の笑顔だったり、様々な表情と、お腹や背中をさすったときの、感覚が残っています。そういう大切な記憶を全部ひっくるめて、想い出と言うのだと思います。想い出があるから悲しい。悲しい気持ちの中に、想い出があり、温もりが記憶にある訳です。悲しみの中身を知れば、悲しみはとても大切な感情になります。その悲しみを、人生をかけて守りたいと、最近は思うようになりました。

悲しみは、そう簡単には人には話せません。話せば、涙が出でくるからです。悔しい気持ちも湧いてきます。だから、辛い。でも、知って欲しい人には話したい。でも、そんなに多くは語れない。語ることより、安心できる場所に居て、ホッとしたい。考える時間を持ち、知恵を得たい。ご遺族の皆さんが、いつもそう話してくれます。

悔しい、辛い気持ちと、温もりいっぱいの部分とのバランスを取りたい。その為に情報や知恵を得るためのアンテナを張り、そのバランスが取れたら、記憶が宝物に変わり、自分のペースを歩き始めることが出来るのかもしれません。しかし、それもそんなに簡単なことではありません。大切な人を失えば、生活自体が変わります。そのペースは、その人それぞれのペースで良いのだと思います。

はるか昔には、ネアンデルタール人だって、お墓に花を手向け、嘆きの中で亡き人を偲んだのだのだと、遺跡から思います。そのくらい昔から、人は大切な人を失うと悲しいのです。永遠のテーマです。

世の中に苦しまない人なんて、きっと一人も居ません。悲しみが教えてくれるのは、あなたは、あなたで良いのだということなんだと思います。(自分勝手という意味ではありません)人に迷惑を掛けず、自分のペースを守り、歩むという意味です。

明るく振る舞える自分がいて、
(時々、目が笑ってないけど)

良い顔しなくちゃいけなくて、
(その後どっと疲れるのは、なぜでしょう?)

趣味に没頭出来る自分がいて、
(夢中になれること、大事です!)

仕事や家のことを
しなければいけない自分がいて、
(役割だから!必要とされてる幸せ探し)

時に、ちょっと疲れてサボる自分がいて、
(ここ、本気で大事です!良い成果を上げるため、上手にサボりましょ!)

目標は多少高く持てるけど、
(みんな、そう。)

言ってることと、
行動が伴っていない自分がいて、
(自分が一番分かってるはず!)

だいぶネガティヴな自分がいて、
(それでこそ、人です!普通、普通!)

考え込みたい自分がいて、
(この時間も、大事です)

人と関わりたい自分がいて、
(ある、ある。)
等々、

自分の中には、
実はいろんな自分が居るもので(笑)

人としての社会的な人格を表現する為に、
そういうバランスを
取らなければいけないので、
ちょっと疲れたら、
気分転換が大事ですね。
モチベーション
(テンションではない)
保つのって、
大変なものですよね。

色々と相談を受けることも増えましたので、少し長くなりましたが、普段お答えしている内容を少しだけチョイスしてみました。私の知っているステキな人は、みんな忘れられない大切な人の存在が心にありますもの。だから、目の前の人を大切に出来る方々なんだと思います。

長野県と言えは、「蜂の子の佃煮」。その色々を教えてもらって、夢中で聞いた時間もありました。

「蜂に、紐を付けます。

飛んで行く蜂を追いかけます。

蜂の巣を見付けます。

煙を炊きます。

蜂の巣を取ります。

蜂の子を取り出します。
(ずっと笑顔で教えてくれる)

蛆(ウジ)虫と蜂の子を分けます。
(ジェスチャー。蛆⁉︎)

蜂の子を甘辛く煮ます。
(こちらを向いて笑顔でジェスチャー)

食べます!
(笑顔でジェスチャー)

美味しい!!
(良い顔!)

年寄りは、そのまま食べる人も居ます。とても、クリーミーですって!

以上です。」

きっと、海の人が魚を食べるのと一緒の感じだと思います。漁師さんが教えてくれた、漁の仕方と説明時の笑顔が一緒だったから。山のあらゆる物をどのように栄養にして、食べるのか。その知恵はきっと、大事な文化なんだと思いました。

私「蜂に、刺されないんですか?」

看護師さん「うちのじいさん、時々まぶたが腫れてるから、刺されていると思いますよ!」

一同爆笑。

山のことは、山の人に。海のことは、海の人に聞く。つながって社会になるんだと、プロの凄さを知った、長野県の旅でした。

長野県伊那西高校いのちの授業

20日、3年前に伺って、2度目のいのちの授業にお邪魔しました。

校長先生にも、震災後ずっとご支援をいただいています。生徒の皆さんにも、部活動のイベントなどで募金活動をしていただいたりして、子ども夢ハウスおおつちに寄付を続けてくださっています。

保護者会のバックアップの中、夏休みを利用して、生徒の皆さんが子ども夢ハウスおおつちに、みんなで訪問してくれたこともありました。その時、岩手県大槌町にある、東京大学海洋研究センターの所長さんから、震災前と後の海の中の様子を教えてもらう貴重な時間もありました。夢ハウスの子どもたちも、伊那西高校のお姉さん方と、皆さんが企画してくれた遊びなどを通して、交流を深めていました。

いのちの授業が終了し、質疑応答の時間も皆さんの質問が終わることなく、直球の質問に答えながら、皆さんと一緒に色々考えた時間もありました。

私が一番嬉しかったのは、亡くなった人を人として、きちんと感じてくれていたことでした。これは、人ごとではなく、すでに自分の生活の中に「死」という存在を通して、一人一人のいのちと人生を見てくれた、皆さんが使う言葉一つ一つから、私はそう感じていました。ありがとう。心から嬉しかった時間です。

「忘れられない人は居ますか?」の回答。

今までの人生の中で、私自身の悲しみの意味を更に深めた、何もかもが初めての経験ばかりだった、東日本大震災の記憶。初めて行った、安置所の中に安置してもらっていた、3才くらいの身元不明の女の子。今、生きていたら何歳かなと、考えることは、よくあります。彼女に会っていなければ、私は走り続けることは無かったと思います。自分の無力さから発生した後悔に、あの時も今も背中を押してもらっている気がします。亡骸を前に、彼女が生きていた事実を知り、存在を知ったことで、出会えたからこそ教えてもらえた、悲しみの中にある大切なことや、思い続けることの意義を、今も教えてもらっている気がします。可愛い、女の子でした。彼女の存在は今でも、私の心の中の、大切な宝物です。自分の口で話せば、涙が止まらなくなってしまうから、おもかげ復元師という本に、気持ちを記録しています。機会があれば、学校の図書館に置いてもらっているので、(校長先生、あるよ!ってことで、手で大きなマルをしてくれました)読んでみてくださいね。亡くなった人たちがきっと、皆さんに死から生きることの意味を、教えてくれると思います。本の中の人たちは、死を迎えてもみんな、私の大切な人たちです。

「亡くなった人を、こわいと思ったことはないですか?」

もう、12年以上も前の、この道を志して3日目、夏の暑い日のことでした。亡くなって2週間目に発見された方に会った時、やっぱりこの道を進むのはやめようと、思ったことがあります。詳しくは話さないけど、分かる人には分かるお体の状態です。(みんな、どよめく)けれど、その背景を知り、家族が居ないことを知らされたとき、今、何故、自分がここにいるのかということを考えました。「この人の最後に、あなたが、この方の家族として見送って欲しい」その方に関わってくれた人から引き継ぐとき、そう言われました。こわいと思ったことを申し訳ないと思い、人がどうして変化していくのかを、実際の現場の中の実践から見極め、一人一人を守りたいと、技術を自分なりの方法で行ってみようと行動出来るようになりました。(みんな、身を乗り出して聴いてくれました)

等々、質問をいただきました。帰るときに玄関に出たら、「笹原さんの、絵が大好き!」と、駆け寄って話してくれる子も居ました。亡くなった人を大事に思ってくれること、心が温かくなりました。亡くなった人を記録したことで、亡くなった人が生きている人を支えてくれる現実を、教えてもらいました。絵日記を、世に出して良かったなと、人の笑顔はいつでもそう、思わせてくれます。

今年の夏休みの課題図書に、「おもかげ復元師」が選ばれた、伊那西高校です。是非、私も拝読させていただきたいなぁ〜と、思っている今日この頃でした。

大変有名なスポーツ校である伊那西高校の全校生徒の皆さんと、教職員の皆さん、保護者の皆さん、報道関係の皆さんにお世話になりました。ありがとうございました。皆さまお一人お一人の、益々のご活躍を御祈念申し上げます。

2016年6月20日

日総研、東京セミナー

18日の東京セミナーでも、定員以上のお申し込みをいただき、会場には全国各地から医療・介護職の皆さんが集られました。多忙な中で、今日のセミナーのために調整し、準夜勤や夜勤明けで来たと教えてくれる看護師さん方々も、居られました。

セミナー終了後には、「寝てしまうかと思いましたが、眠たかったこともすっかり忘れて、目がギラギラでした。」と、患者さんや利用者さんとの想い出を更に深めたと、様々に感想を教えていただきました。

疾患などにより、お看取り時の状態や状況も様々です。そして、一人一人の感じ方も心情も同じく様々です。どんな風に捉え、何に気付き、求められていることに沿い、形に変えて行けるだろう。と言うのは、私も毎回の現場で向き合わせていただいています。現場は生き物だと私は思うので、対応出来る力が求められます。

一つでも、皆さんの現場にお役立ていただけるように、お別れの現場から様々にお伝えしました。

思えば私自身も、母の脳動脈瘤と言う病気と直面したとき、困惑したものでした。自分の家族がせん妄(母の場合は性格が変わったように、内容が掴めない話を多々し、ヒステリックに夜から朝まで怒り続けていました。朝になると、元に戻ります)になったこと、それに気が付かず毎日一生懸命対応して、結局私は倒れてしまったこと。誰かに相談出来ていれば、随分違ったかもしれない。甘えた考えをすれば、そう言える。でも、いっぱいいっぱいだった、あの時の私は、誰かに相談することすら、思い付きませんでした。でも、母が発症した凄まじいあの様子の情報が欲しくてアンテナを張り、色々聞いて専門家に辿り着き、教えてもらったことを考えれば、私は心に大きな傷を持ち、ショックを受けていたからこそ、自分の心にその情報がしっかり入ったのかもしれない。たくさんの人に支えてもらったことも、気が付けた。だから、きっとあの時で良かったんだと、母の脳動脈瘤の手術の後に何年も経って、色々な人の温かさに触れ、やっとそう思えたと言うこともありました。

セミナーに来て下さる皆さんも、プロという立場の中で、公私ともに様々な経験をお持ちです。たくさん傷付いて、大切なアンテナを守り、情報を得るために来られます。

セミナースタートの表情と、終了後の表情は全然違うものです。壇上からは、よく見えます。大切人を想い出される瞬間も、よく分かります。

セミナー終了後には恒例のサイン会と、質疑応答の時間を迎えました。その中で教えてくださった、皆さんの心に残った、今回のセミナー中の話は、以下のお話しだったそうです。多くの皆さんの心に、残していただいて光栄です。ありがとうございました。

「私の仕事は、必ずしも最初から好かれている訳ではありません。「帰ってくれ」と言われることも、時々あります。でも、それだけでは私の心に傷は付きません。

大切なのは、その言葉に込められている、その方の本当の気持ちです。それを知ったときに、胸がギュッと苦しくなることはあります。

自分の仕事を客観的に見れば、大切な家族を棺に納めてしまうと言う仕事です。だから、死に向き合えていない状況の中で、嫌われて当然です。でも、亡くなられた方の体を安定させ、笑顔にすることが出来ます。信用してもらえる要素も、積み重ねました。でも、それをどのように選ぶのかは、目の前の方です。選んでもらえるかは、私自身のそのときの対応が大きく左右するのも、確かです。

体の状態が非常に不安定な、赤ちゃんが居ました。呼ばれて、到着しました。お母さんは、私に「帰ってくれ」と言いました。

お母さんの動きの全体を、拝見していました。お母さんは、赤ちゃんを隠しました。私に、赤ちゃんを取られると思ったのだと思います。

少しずつ、お母さんと信頼関係を結んでいきました。止血をし、体液を止め、色を直し、お母さんが少しずつ、赤ちゃんとの想い出をお話ししてくれました。時々、泣き叫びます。悲しみの感情を体の外に出していただくため、手を止めて、見守る時間もありました。

4歳に近い3歳の、赤ちゃんのお姉さんが現場には居ました。彼女は、お母さんの悲しみを目の当たりにし、座ることなく色々と忙しなく動いていました。よく観察してみると、何かを手伝おうとしていることが分かりました。

小さくても、空気を読みます。悲しみを感じているのだと、私は思いました。プロセスからの結果は、手の掛かることが多々ありました。その時々で、お母さんに笑顔が出ます。彼女が動いた結果がチャーミングで、みんなで笑った時です。お母さんが、彼女を胸に抱きました。

「あんたも、いたんだもんね。ごめんね。ありがとう。ごめんね・・・。」

赤ちゃんにずっと手を掛けていた、お母さんの大切な時間。それを、ずっと見守っていた、小さなお姉ちゃん。私に見えていたのは、お母さんの背中にある、彼女の小さな手。お母さんの背中の服を、ギュッと握っていた小さな手でした。

私は、小さな彼女に教えてもらったことがたくさんありました。

彼女は、お母さんを、自分のきょうだいを、家族として自分なりに精一杯守っていたこと。彼女のギュッと握った手は、甘えたい気持ちがあったのはもちろんそうかもしれません。でも、その小さな手は、お母さんを守ろうとする、頼もしさを感じました。

4歳は、記憶に残す子が多くいます。この子を見守ってくれた、この子の家族の人たちも、立派だったと思います。悲しみを隠さず、しっかり見せたお母さんも、立派です。お姉ちゃんが大きくなったとき、お母さんが見せてくれた姿から彼女は、悲しみと向き合う方法を知りました。お母さんと、お姉ちゃんをつなげてくれた赤ちゃんも、立派でした。こちらの家族は、赤ちゃんが生きた時間の価値を、自分たちの力で取り戻したと思います。死の質は、生きる質に等しい。死の中にある事実から、人は意味を探して方向を定めようとします。その中心で、家族と共に頑張ったお姉ちゃんから多くを学び、そして愛おしく感じた現場のお話しでした。」

10時〜16時までのセミナー、大変お疲れ様でした。皆さまお一人お一人の、益々のご活躍をご祈念申し上げます。

2016年6月14日

梅雨の時期が到来⁉︎

11日は、マンツーマンセミナー。終了後は、いのち新聞の日でした。

もう14日。あれから3日も経ってしまった・・・。時が経つのは早いもの、通りで年を取るのも早いもの。致し方あるまい・・・。(自分に言い聞かせてみる)

ずーっと、復元の現場も続いていました。様々な職種の皆さんが、ご遺族が、お一人お一人とご縁をつないでくださって、皆さんとチームになり、お別れのお手伝いをさせていただいていました。

社会問題に直面するも、似た背景でも一件一件違う。現場が終わっても、考え込んでいることも最近は増えました。

いのち新聞での今回の議題は「支援する側、される側」の価値観の違いや、求める・求められることの違いなど、新しいメンバーも増えて、岩手県内に於いて、全員支援される側であった事から、みんなそれぞれの立ち位置から見ての、東日本大震災を振り返っていました。

色々な話しも出て、「いのち新聞企画」という小さなイベントも、少しずつ無理のないところで、スタートしてみようということにもなりました。

この日は、東日本大震災の月命日。月命日には、岩手県警の警察官の方々など、今でも行方不明者の捜索を続けていただいています。「警察の人たちが、自分たち素人には出来ない捜索をしてくれているから、その胸を借りて、何とか生活の中でも自分のペースを作って行きたい。」などの話しにもなっていました。いのち新聞のメンバーの中にも、東日本大震災が発生したあの日から、家族の帰りを待っている人たちが居ます。

現在の岩手県の行方不明者数は、1123名と、発表がありました。今後も私たちは、様々にゆっくりと、応援してくださる皆さんに支えられながら、この活動を続けて行きたいと思っています。

いつも「いのち新聞」を楽しみにしてくださる皆さんに向けて、色々と発信出来ることが増えそうです。一人一人が遺族であるので、もちろん無理のないところでということになります。

国立国会図書館から、新しい号(6号)のいのち新聞提出依頼を、いただきました。有難いことです。次の号(7号)は現在、鋭意作成中です。

さて、梅雨の時期に入ったのでしょうか?雨が続きます。ジトジトした湿度の高い時期が過ぎれば、暑い夏の到来です。何とかかんとか、頑張ります!

季節の変わり目、皆さまもお身体、どうぞご自愛ください!(`_´)ゞ

2016年6月10日

心が養われるとき

先日の復元納棺の終盤、何か音が聞こえて来た。何だろう?と思って、音のする方を見ると、中学生のお孫さんが、何かを口から出したいような様子で、

「ぺっ、ぺっ・・・。ぺっ、ぺぺっ・・・。」

イライラしている様な舌打ちでもなく・・・、何か分からないので、きっと意味があるのだろうと思って、聞いてみた。まわりの大人も、何か分からず聞けない様子。

私「今、声掛けても良いですか?」

孫「はい。」

私「一つ、聞いても良いですか?」

孫「はい。」

私「何してるの?」

孫、ちょっとニヤッとして、

「ボイスパーカッション!(おっと、得意気!)」

私「・・・⁉︎」

孫「知ってますか?ボイスパーカッション!」

私「いや、ごめんね、分からない。」

孫、インターネットで検索して、画像を見せてくれて、やって見せてくれて、ちょっと得意気⁉︎

私「(そうだったのか!それなら、知ってた!)何か、想い出があるの?」

孫「んー、特に、無いです!(笑)」

私「・・・。(無いのか!)」

孫の母「じゃあ今、やらなくても良いよね?」

孫「うん!」

孫の母「残念だけど、ボイスパーカッションには聞こえなかったね。練習、あるのみ!頑張れ!」

孫「おぅ!」

一同、大笑い。故人の性格にそっくりだと、大絶賛されていました。急にボイスパーカッションで送りたくなったけど、思い付いただけで、やったことがなかったので、出来なかったという、可愛らしいお話しでした。可愛すぎたこの行動に、すっかりノックアウトされた私でした。

出棺の日・・・、

突然鳴った、電話。葬儀担当さんの携帯電話からでした。

孫「担当さんにお願いして、電話しました・・・、あの・・・、今から出棺です。」

私「今、出発する所?」

孫「はい。」

私「(どうしたのかなぁ?もしかして・・・?)ボイスパーカッション、するの?」

孫「母にするなよって、言われました。(笑)」

私「したいの?」

孫「いや、それは良いんです。ただ、お盆に帰って来て(故人が)くれるかなぁって思って。」

後ろから、孫の母の声
「部屋を片付けないと、誰も来ないよ!」(親子って、素晴らしい!)

孫「マジっすか?」

私「まぁ、そうかもしれないね。お寺さんが来られたら、聞いてごらん。」

孫「聞かなくても、ぼく、分かったっぽいっす!」

私「そっか。(故人に)話し掛けて良い時間だから、声掛けてね。「お盆に帰って来てね。待ってるからね。」って。」

孫「はい!あと、部屋片付けるからねって!」

経験したことのある方は、よくお分かりだと思いますが、「火葬」は、遺されたご家族にとって、とても勇気が必要な時間です。家族の体が現実に無くなる時間を、どう捉え、どう考えて、今を過ごすのか。送りたくない、でも送らなければならない。その葛藤の時間です。きっと、お孫さんも、とても不安だったのだと思います。人に備わった大切な、優しいという気持ちを教えてくれた、故人が大切にしていた、中学生のお孫さんでした。

なんとなく故人の笑顔が、お孫さんの姿に重なり、お二人の積み重ねた大切な時間に、私の心を養ってもらった様な気がしました。

2016年6月9日

第44回浄土宗寺庭婦人会関東地区研修会

7日、約4年前に会長様からお声掛けいただきました。関東地区9県からなる、浄土宗のお寺を支え、守る、住職の奥さまの会です。

会場には300名を少し超える寺庭の皆さまと、浄土宗青年部の僧侶の皆さま、来賓の僧侶の皆さまが居られ、90分のお時間をいただいて、お話しをさせていただきました。

講演のスタートも、さすが宗教家の奥さまの皆さまですから、会場から大きな反響をいただきました。私のプロフィールが、やっぱり少し変わってる?()内は、会場内での皆さまの声です。プロフィール紹介をご担当、お世話いただきましたのは、お寺の奥さまです。マイクを通し、素敵な雰囲気の中でプロフィールがスタートしました。

幼少の頃にキリスト教の日曜学校に通い、
(ほぉー)

初めて社会に出たのが、大きな神社で巫女として奉職し(うなづき)、舞楽や雅楽を宮内庁の先生数名から指導を受けて習得。(ほぉー!)
3年後に巫女長となる。(へぇー!)

曽祖父は村長でニシンが取れなくなった時の町の復興に携わり、その話しを聞いて育つ。(うなる)

母は僧侶で、(おぉー!)
先祖が山伏。(えぇー!そして、どよめき)

「幼少の頃から、色々な宗教学を実践的に学ばせてもらいました。その目的として本当は母は、私に出家して宗教者になってもらいたかったそうです。」からスタートしました。「現場で苦戦しながらも向き合わせてもらって、ご遺族から「復元師」と名前を付けてもらって、その付けてもらった名前に恥じないように、きちんと応えていけるように研鑽して、もっと深めて行きたい。」と散々悩んで、出家しないことを母に伝えたとき、静かにうなづき、認めてくれました。

と言う話しからスタートして、現代のお別れの形の特徴と、現場からお伝え出来ることを含め、90分を終えました。

講演終了後には、今後の講演のお申し込みに、たくさんお声を掛けていただきました。一番遠い時期で、再来年の春。

ちなみに、プロフィール紹介は写真を使用しながら、良いところだけを抜粋しています。(まぁ、大抵はそうだと思いますが。)

例えば、キリスト教の日曜学校に通っていたときに、とってもステキで皆から大人気の牧師さんだったけど、少し音がずれている方で、他の教会の子どもたちと賛美歌を歌ったとき、私たちの教会だけ音がずれていて困惑したとか、

宮内庁の先生に、特に1年目は非常に厳しくご指導いただき、音と足と流れがなかなか覚えられない私は、自分に腹が立って毎日トイレで泣いていて、「泣いても何も進まない!」と気が付いた私、「せっかく宮内庁の先生に、指導してもらえるんだから!」と、連日徹夜で、先輩巫女から先輩が舞ったビデオを、拝み倒してやっと借りて覚えたけど、結局根本的な問題で、猿腕の私はとんでもなく苦戦したとか、

そういう、本当は知って欲しいけど恥ずかしい部分は、プロフィールに載せないものです。載せても、長すぎるし!もっと言うなら、講演に関係ないことを話しても、迷惑でしょうから!

浄土宗も、雅楽をするのだと後から僧侶の皆さまから伺い、懐かしい宮内庁の先生方のお名前を聞きながら思い出話しをさせてもらったり、ステキな時間でした。

お寺を守る奥さまの皆さまに、色々とお話しを伺えたことも、とても勉強になりました。縁の下の力持ちの、力はすごかった。頭が下がります。

私は学びました。

お寺さんは、歴史を丸ごと守っていること。その時代ごとの歴史の中に、一人一人の「人の歴史」もあります。お寺がある限り、歴史は守られる。「歴女」と呼ばれる、若い女性の間で歴史を知り、その歴史が存在する寺社を回ることが流行っていると聞きます。

いつの時代も男性が開拓・改革し、
女性が育てて守るのかなぁ。

どちらも欠かせない、それぞれの得意分野を重んじた役割。そんな日本のステキな文化を感じた時間でも、ありました。

奥さま方々と話した中に、アーサー・ゴッドフリーの名言の話が出て、色々と語り合った時間がありました。

「結婚するとき、
私は女房を食べてしまいたいほど
可愛いと思った。
今考えると、
あのとき、
食べておけばよかった。」

「どう思う?」と聞かれた私。
「微妙です・・・。微妙ですね。(何て言って良いのか・・・。)そうですね・・・、あくまでも、個人のつぶやきが名言と呼ばれるようになったのでしょうし、女性側からの名言はどうなってるのでしょうか?」
「そうね、探してみようかしら!」
(和やかになれるような名言に、ご縁がありますように)

以上含め、語り合い⁉︎ました。それは冗談としても、もちろん大丈夫!それに対しての、様々なお知恵をたくさんお持ちでした。さすがだと思いました。ステキな時間を本当に、ありがとうございました。そして、色々とお世話になりました。皆さまの益々のご活躍、ご発展を心よりご祈念申し上げます。
 

2016年6月7日

岩手県立花巻北高等学校・復興教育授業

6日、「復興教育授業」ということで、全校生徒750名、アメリカからの留学生6名、教員の先生方々に向けて、お話しをさせていただきました。私の母の母校というご縁もあり、母の青春時代を(いつでも青春時代みたいな人だけど)少し意識しながらのスタートでした。

お話しの概要は、以下の通りです。

仕事は、目の前の方の人生の、大切な時間の一部であると、思います。私たちの前を立ち止まられるのか、通過されるのか。どのようなお仕事でもきっと、互いにそういう状況や背景が存在するものです。だから、今をどうするか、次に何をするべきかを考えながら進める必要があります。

(略)

何かしらを生業としたとき、
様々な知識が必要です。

知識を持つと、
探究心を養う形になるので、
なぜ?どうして?と、
自分自身に問う力を持てる人になり、
その探究心の先にあるものを、
きっと見付けられる人になると思います。

そして、真摯に取り組むほど、
壁に当たり、その度に、
どんどん勉強する。

勉強は、何かしらの目標を持ってするもの。
満点を目指しても良いし、

夢を見付けているなら、
それに向かっても良いと思います。

まだ夢と出逢ってないなら、
夢に出逢うまでの、
準備のためとしての勉強でも良い。

後悔を追いかけるのが目標であっても、
人それぞれだから、良いと思います。

但し、
自分自身を成長させることを目的として欲しいと思います。人に認めて欲しいと思うこともあるかもしれないけど、それは人に向けると間違いが起きやすいので、自分自身に向けてみると、色んなことが、見えて来やすくなるのだと思います。そのときに見付けやすいのが、挫折。

壁は、
目の前に立ちはだかるイメージ。

挫折は、
ガクッと肩を落とすイメージ。

挫折したとき、どうするか。

自分とどう、向き合うか。

その向き合い方によって、この先の進み方が大きく変わってくるのだと思います。

挫折したときこそ、
その悲嘆という力によって、
自分自身と向き合うことにより、
もっともっと、知識を吸収する力を得られるのだと思います。

(中略)

だから、挫折を経験した人は、
とっても温かく、優しく、強い。
それから、
たくさんの人の力を借りて、
責任の取り方をそこで、学びます。

その力をバネに、
それぞれの立場から、
復興を考えて欲しいと思います。

立ち位置が違っても、つながって考えていくことができれば、それが町づくりになるのだと思います。

挫折を経験した後に得る知識により、
応用力を身に付け、
その知識は、
目の前のことに挑む勇気をくれます。

しっかり落ち込んで考えて、自分の向かう方向を、探して欲しいと思います。

2度と後悔したくない。
そういう思いで、
私も突き進み、
たくさんの人に支えられ、
生かしてもらいました。
今も、そう。

悲しみに直面するお仕事を、こうして続けさせていただけるのは、決して悲しみに慣れたのではありません。深い悲しみを感じることは大変多くありますが、悲しみに対して向き合う知識と手段を手探りで現場で探し続けながら、それを知り、求められることに対して悲しみを力に変えていく、それを続けている形です。

現場は生きているから、その動きに如何に、対応出来るのか。プロに求められることをしっかり現場で見る訓練を、今でも続けています。

(体験談、中略)

大人はみんなの悲しみを支え、
笑顔になれるように、
色んな知識を分けてくれる。

けれど、考えて、悩んで、
決めるのは、自分です。

だから、自分を信じ、育ててあげてください。

ただ無意識に生きるのではなくて、生きていることを意識して、生きて欲しいと思います。

今日は、今日しかない。

それが亡くなった人たちが遺してくれた、とても大切なものだと思うから。

老婆心ながらとおおよそ、
そのようなお話しをさせていただきました。

ご縁をつないでいただきました、諸先生方々に心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。皆さんの、益々のご活躍をお祈り申し上げます。

追記、
一生懸命キラキラした目で、ざわめいたり、驚いたり、涙したり、大きくうなずいたりと、一緒に考えながら、皆さんが聞いてくれました。ステキな皆さんと、いのちや復興を考えられたご縁に、感謝申し上げます。

追記2、
いのちの授業のお申し込みを多数、いただいておりますが、なかなか私のスケジュールが合わず、お受けできないことも多々、ございます。大変、申し訳ありません。なので少し、いのちの授業の内容を、ご紹介させていただきました。

明日は、4年前にお申し込みをいただきました講演に伺います。お世話になります、よろしくお願い致します。

2016年6月3日

JA葬祭担当者・納棺実践講習会、佐賀県

九州全農さんからのご依頼で、今年で3年目になる「JA葬祭担当者・納棺実践講習会」のため、九州全県のJA葬祭担当者さんへの技術指導のため、今回は佐賀県に来ていました。


「死」の存在が生活の中から遠ざかる時代背景の中で、現代のお見送りの形が様々に変化しつつあり、家族葬や直葬と呼ばれる内容の希望も多くなったと言われつつも、その形も少しずつ変化しています。人間関係に於いての社会的な課題や、その背景も大きく関係してくるようになりました。

悲嘆の援助を目的とした、参加型納棺の内容を組み込む形として、地域のしきたりや風習に合わせて、求められていることを捉え、ご遺族の希望をどのように叶えていくか、10時〜16時までのいただいたお時間の中で、講習を行いました。

質問も大変多く出て、テキストの中に無い特殊な内容についても、お答えしていきました。

悲しみは、人の心を深い優しさへと育ててくれると思います。大切な人を偲ぶ偲び方、悲しみ方・・・。大切な人が遺してくれた想い出は、ちゃんと人生を支えてくれるから、お別れのお手伝いも一件一件が真剣勝負です。

同じ九州の中で熊本県での地震災害についても、支援され続けて居られる方々も居て、今までと現在、これからのことを、話し合った時間もありました。

報道いただいた記事や、NHKスペシャルを見て、この道に進んだとお話しをしてくれた若い葬祭担当さんが居ました。

「この世界に入って、良かったと思いますか?」と聞くと、

「深い悲しみの中で頼られ、自分の未熟さをその度に知らされます。だから、学んで、希望に応えられる担当者になりたい。この道に入って、自分の考えが深くなり、学びも多く、本当にこの世界に入って、良かったと思っています。」

仮に私の存在を知ってもらったとき、亡くなられた方を含め、死に携わり御尽力された沢山の人たちの存在を知ってもらうことが出来ること。そして、何より亡くなった人が、誰かの心の中に生き続け、支えてくれていることを、お話しを伺う中で、教えてもらいました。

今日の佐賀県の最高気温は28℃!来週辺りには、梅雨入りするそうです。九州新幹線は、地震災害の影響で臨時ダイヤで運行していました。そして、岩手県に帰って来ました。