「どんな言葉を掛けたら良いですか」と問われることも多いけど、
自分が同じ立場なら、「どんな言葉を掛けられたいですか」
と考えてみれば、答えは自ずと出てくるだろうと思います。
ちなみに、現場で御遺族に、「こんな風に言葉を掛けられたんだけど、どんな風に答えるべき?」と聞かれることが多くあります。
実は、お互い様のことが多いですね。
絶対に言ってはいけない言葉、絶対にやってはいけないこと、悲しみの現場には、色んな決まりがあるから、みんな悩むのかも知れないけれど、何せ一番大切なことは、先ずは、
心を通わせてみましょう!
(本当に大切なこと、忘れないで!)
ということに限りますね。心を込められれば、例え言葉をコミニュケーションの手段として使わなくても、通じることってあるものです。
それが、悲しみの現場。悲しみは、人に沢山のことを教えてくれます。
だけど、それって死の現場だけに限ったことではありません。普段から、自分が何を考え、何を求め、何を感じ、どんなことに研鑽しているのか、誰かに認められたいからのスタートでも良いけれど、結果、遅かれ早かれ自分が自分を認められるのかと言う苦しみに、いつか当たってしまうのが、多分人生ですよね。
例え表現が様々でも、実はここに、みんなが悩んでいる。
誰だって死を迎える時は一人です。生きている以上老いて、そして病気になる可能性を高く抱えます。
まだ、起きてもいないことに恐怖を感じて生きること、リスクマネジメントも大事かもしれませんが、
もっと大切で、向き合わなければならないことが、本当はあるとしたら、足元からしっかり固めていくべきでしょう。
火葬場が、黒い煙の出るものが禁止になり、益々厳しくなっていますから、棺の中には入れられないものが増えています。残念ですが、名誉だって、財産の全ても、棺には入れられません。
チベットの文化には、昔の日本に見て取れる歴史が未だに残っていると言います。
その人が亡くなれば、財産はお寺へ寄付し、身の回りのものも、近所の人たちが売りさばき、それをお寺の寄付とします。要は、地域に還す。
この話をどう取るかも、その人それぞれなのかもしれません。
私は、こう取ります。
「執着しない。だから、手放す。」
そこから起こるものは、信仰する神仏に、大切な家族を委ねるということにつながります。
依存は、見返りを求めます。
委ねることは、お任せすること。明らかに見たから、出来ること。諦めることです。
意味が全然違います。なので、納棺の時間は、それぞれの地域性の中にある死生観を重んじ、一つ一つの悲しみを見て感じ、お互いのいのちの意味と、いのちの使い方を探しながら、その意味を考えている時です。
言葉は大切。でも、もっと大切なのは思いやり。大切なのは、言葉単体ではなく、言葉と思いのバランスです。
だけど、「どんな言葉を掛けたら良いのですか?」って、本当は答えが出てますよね。裏を返せば、掛ける言葉も見付からないってことですよね。そう、悩んでる方にお会いする度、素敵な方だと感じます。
自信と言うか、芯を持たなければならないことってあると思うけど、自信が無い人の方が、人の心に配慮出来ていて、私は好きです。私も自信は無いけど、芯は育んでます。意味、分かる?わかんねぇだろうなぁ〜〜(古いっ!サブッ、昔のギャグ(笑))
掛ける言葉が無い。これが答えなら、目の前の方が安心できることを探して、さり気なく動けていれば、良いんだと思います!
求めることよりも、求められていることを、探してみてください。今しかない、今なんだから!