2015年2月4日

鬼の正体

「鬼は外、福は内」の節分でしたね。

小学校の頃、

「鬼の正体って何だ?福って、だいたい何なんだ?」

と、考え込んだことがありました。おかしな小学生でした。(笑)そして、中学生になり、やっぱり同じことを考えていました。高校生になり、とても気になるので、母に聞いたことがありました。

「鬼の正体は何?福って、幸せのこと?福が来いという意味で、「内」は分かるけど、鬼の正体が分からないのに、「外」なんて言えない。」

すると母が言いました。

「自称、鬼研究家(理由は追々)のお母さんとして考えるところに(本当に、とんでもなく詳しい(笑))、

鬼の意味するものは、昔は「厄」のことを指したと思う。疫病が流行り、日照りや冷害で作物がとれなかった時代と、それと人生の中で良くないことが起こったりね、人の力ではどうにもならないことを「厄」と呼んだのかもしれない。その厄を、「鬼」と言う凶悪な鬼に例えて、鬼は外。何らかの理由で怨霊や妖怪に成らざるを得なかった、それらを指して、「鬼」と考える人たちも、昔は多かった。で、鬼は外。

大和民族が先住民族を「鬼」と呼んだと言う記述もあり、

ところが、外国人説もある訳よ。昔から残る記述には、鬼が随分登場してる訳ね。海を越えて渡ってきた、外国人を見た日本の人は、初めて見る風貌に「鬼」と呼んだそうだ。

大昔、その鬼と呼ばれた外国人をかくまったのが、役の小角(えんのおずぬ)と言う人で、奈良の吉野のお山を開いたと言われている人ね。小角は、五カ国語以上話せたと言われていて、山の中に住みながら、世界中の文化を教えてもらったんだって。外国人は、小角に作物の作り方や、薬草の煎じ方など生活に於いての色々を教わったんだって。だから、吉野のお山では現代でも小角が大事にしていた、鬼と呼ばれた人たちの歴史を守り、「鬼も内、福も内」と言って、全国から追いやられた鬼をお山に招いて、もてなすんだって。

いわゆる「鬼」とは何かと問うならば、年齢や環境や、立ち位置、時代など、その時その視点で、鬼の意味が変わるのかもしれないね。

結局、鬼は自分の中に居るのかもしれないよ。「鬼は外」と言ったって、そう簡単には出て行かないでしょうけど。自分の一部なら仕方ない、と諦めるか、外に出す努力をするのか、その鬼と共に生きるか。いずれにせよ、その鬼は、自分の気持ち次第で、いつ何時現れるか分からない。その鬼をコントロールするのも、自分。押さえつけるのか、解放するのか、解放した時の自分の責任は如何にするのか。

自分の心の変化を教えてくれる存在として、「ハッ」とされてくれる存在では、あるんだろうけどね。

(多分、私が思春期だったから、そんな話をしてくれたのかな?と、今は思う。)

鬼の正体を問うたとき、「その人の持つ意味」という事ならば、一人一人違うんじゃないの?」

「そうかぁ、自分の中にいるのか・・・」

「え?じゃ、自分に豆を当てるの?」
「ま、そういう人が居ても、良いんじゃないの?」
「痛いよ。」
「だから、昔から外に向けてるでしょ。同じ考えの人は、何百年前でも、居たと思うよ。(笑)厄に向けて豆を外にまくのか、自分の中に居る鬼に向けてまくなら痛いから、外にまくのか、それはその人の自由でしょ(笑)」

もちろん、私は外にまいたのでした。(笑)

「鬼は〜〜、外、外!・・・(これで、良いのか⁉︎)」

鬼の存在は、一見(聞)良くないことと言うイメージがあるけれど、昔から伝わる「鬼」と言う存在から考えられる、昔の人の知恵は何処に。大昔からある、この豆まきの伝統は、きっと必要だから現代に残っているのだと思う。その伝統から、その中にある意味を考えさせられる今日でした。

結果、現代まで人が伝えてきたこととして考えれば、東日本大震災も1000年後の未来まで遺る可能性がある。伝え続けることが、大切です。じゃ、何を伝えるべきかと問うならば、きちんと心に響く形で、起こった時と、その後の問題に対して、人々がどう関わり、どのような問題と直面し、そしてどう時代を生きたのか。私たちは、未来の人から見れば、過去に生きていて、しかも、大昔なんて言われてしまうかもしれない今。「時代」の中に生きている意識を持ち、後世の人が生き抜ける知恵を、大昔の人が私たちに遺してくれたように、子々孫々伝えていかなければならないのだと、強く意識した今日でした。