2016年1月4日

今年もよろしくお願い致します。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

新しい歳を迎える前に我が家でも、年末に家の中を大掃除をして、「失礼します〜」と話し掛けながら神棚や仏壇(神仏が家を守ってくれる信仰は、日本の文化ですね。)をきれいにして、じじが買ってきたキティーちゃんの(何故、キティー?)鏡餅を供えて、買いに行く時間がないから絵を描いて玄関に門松を(けっこう可愛く出来た)。

歳を越したら、新年を迎えられたことに心から感謝をして。年末年始は現場に走りながら年を越す準備をしていましたので、年越し蕎麦も食べられず、じいちゃんが準備してくれたおせちも一口も口にできなかったお正月。(毎年のことです)その反動なのか、3日の夜にお餅を五つ食べていたら、じいちゃんが「お、おまえ・・・、あっっっっ、餅は太るぞ・・・!ん・・・?餅が太るんじゃなくて、量だぞ、食べる量!!」と心温まるお言葉をいただいて(笑)杵でついたよと、いただきもののお餅が、とんでもなく美味しかった!クタクタに疲れた毎日だから、当然、初夢も見ず爆睡。納棺も特殊遺体復元も多い年末年始でした。

高い所(山など)から来ると言われてる「歳神様」をお迎えする日本の風習が、お正月とその準備の年末です。鏡餅も歳神様へのお供え物で、門松も玄関の飾りも歳神様への目印と言われています。居心地が良いように、歳神様にお家で過ごしてもらうことが目的だから、特に何に対しても粗末になることを控えた方が良いと言うのが昔ながらの伝統のようです。(歳神様の存在は山神様、自然神、ご先祖様という説もあります)

そうやって昔から日本の文化の中で、お正月は大切にされてきた「歳神様」を迎える風習なのだと、私も小さな頃から聞いて育ちました。神仏、万物に感謝をして今年も感謝をして生きるのだよと、自分の気が付かないところで、誰かが支えてくれているんだよと(そういうことを生活の中で意識させるための、気持ちを整えるための風習なのかもしれません)、歳神様の話しを初めて聞いた小さな時は、歳神様と暮れのクリスマスで意識したサンタクロースがかぶったものでした。

とても難しい特殊遺体復元、納棺も多い年末年始でしたが「死」という現場は、社会の中を生き抜くために作っていた壁や顔が取り払われることが一時あります。そういうきっかけを作るお手伝いに、納棺として伺うわけですが、そこから「月がこんなにきれいだったなんて」「星がきれい」「道端に咲いている花が愛おしくなった」など「自然の中に生きる自分」に対して、「自分の周りに自然があると思っていたことから、自然の中に自分が居たと」いう感覚を意識するようになったり、普段見ていたはずのものを無意識から意識するようになったり、死から感じる価値や意味を探すアンテナが研ぎ澄まされるので、本来、人に備わっている感覚を取り戻すことがあります。逆に言えば悲しみの現場は、一方的な同情やごまかし、取り繕いが一切通用しない、非常に厳しい現場でもありますね。だからご遺族は決して可哀想な人ではなく、とっても深くてステキな方が多いのです。

棺に移動する前に親御さんを亡くした子どもさんに「何を書いてるの?」と小さな声で内容のことを聞いたら、「コソコソ書いてたの(笑)」と、今の気持ちを教えてもらいました。謝りたいことをがあって、手紙を書いていたのだそうです。手紙を書いてくれた本人の手で、棺の中で合掌された亡くなられた親御さんの手に、手紙を持たせてもらいました。私とその子と、目を合わせて無言で頷いた時間でした。

別の現場では亡くなられた方のお孫さんが、亡くなられた方の手直しをしている両親に「お父さんとお母さん、なんかね、すごく仲良く見えるよ(笑)」と声を掛けて、みんなで目を見合わせてクスッと笑った時間もありました。亡くなられた方がくださった、今の時間が存在する時です。

昨年も小さな子どもたちから年配の皆さんまで、多くのご遺族に支えていただきました。今年も、皆さんにお尻を叩いてもらって一生懸命心を込めて、活動していきたいと思います(お手柔らかにお願いします)。今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。