2015年10月9日

怖いはなしシリーズ11

「怖いはなし、まだ〜?」と言う声も多く(特に若者たち(笑))お待たせしました。

今回は、体験談中心でいきましょう。そう、私が復元納棺師を志した初期の頃の話です。ブログで一回はご紹介したかなと思いますが、少し詳しくお話しします。

バイクの事故で亡くなった、10代の子の納棺、お別れのお手伝いをさせてもらいました。お別れに来る人が、次々とその子に対面しながら、大きな声で泣いたり、「なぜ?なぜ?」「どうして!」と、ご遺族の前で取り乱していました。急死の場合は特に、このような家族ではない方がお別れに来て、取り乱して、家族を責めるような言葉を発し、遺されたご遺族の心を傷つける事も多くあるものです。

ご遺族と言っても故人の高校生の弟さんだったのですが、人が泣いているのを見て、ずっと感情を出すのを、言われた言葉をのみこんで、我慢していた様子でした。納棺は終わったけれど、彼をそのままにして帰れなかったので、お寺さんが来られるまでの一時間半、少し残ることにしました。お寺さんが来られたら、お別れに来た人はご遺族にいろんなことを言うのを止めて、お参りに集中します。ご遺族も、亡くした家族を想い、集中できる時です。

お寺さんが来られ、弟さんの表情で心情に気が付いてくださって、ずっと傍で背中をさすったり、彼の代わりにお別れに来られた方の言葉に、返事をしてくれていました。心から、頼もしかったです。お寺さんにご挨拶をして、外に出ました。

なんだか体がとても重たくて、経験したことのないだるさというか、なんとも言えない不調さでした。変だなぁと思いながら、なんだか体がおかしいので、納棺もその日は先ほどのお家が最後だったので、そのまま家に帰ることにしました。

車をやっと運伝出来る状態で、家についても車から降りることが出来ず、車から這いつくばって家の中に入り、やっと自分のベットに着いて、服を何とか脱いで、そのまま眠りについてしまっていました。

朝方、不思議な夢を見ました。とても暗い空間の中に居て、奥の方から光が近付いて来ました。最初とても小さかったその光が、近付いて来る度に少しずつ大きくなって来て、ピカピカ光る人の形になりました。暗い中に居て不安だった私は、何だかとっても安心できる光に少しホッとしていました。その人は、見覚えのあるおばあさんでした。

私「あ!ご無沙汰致しております。」
おばあさん「その節は、大変お世話になりました。ありがとうねぇ。」とても優しい笑顔でニッコリ笑ったと思ったら、急に私に向かって怖い顔になりました。

おばあさん「この人から離れなさい。この人の大切な仕事に、迷惑を掛けてはいけないよ。さぁ、おばあちゃんと一緒に行こうね。」

おばあさんは、右手を差し出しました。私の後ろから、昨日納棺させていただいた子が出てきて、おばあさんの方へ歩いて行きました。おばあさんが言いました。

「あなたが困っていたから、私がこの子を迎えに来るために、一生懸命お願いして(拝むしぐさ)ここに来ました。あなたに会えるのは、これっきり。でも、会えて良かったよ。何か、あなたの役に立てて、よかったよ。この子は、私が責任を持って預かるからね、大丈夫、大丈夫。」

おばあさんは、私がこの道を志して始めて死後のお手当をさせていただいた、おばあさんでした。夜中の3時頃に呼ばれて、おばあさんのお手当を、眠い目をこすりながらさせてもらいました。未熟な私のお手当の時間の、私の心の方を汲んでもらったのだと思いました。おばあさんが、言いました。

「一つだけ、あなたに遺すよ。あなたが「かわいそう」って同情したから、この子はあなたを頼り、すがったの。同情は、自分の心も相手の心も傷付けるもの。同情より、もっと大切なことは、心をつなげること。つながって、一緒に考えていくこと。同情の先に、それがある。相手の立場に立って、何が大切か、この経験を無駄にしないで進んでね。もう、会えないけれどいつでも見守っているからね。会えて良かった、ありがとうね。

じゃ、行くからね。
(手をつないだ子に)・・・さぁ、お礼を言いなさい。おばあさんと、行こうね。」その子は、深々とこちらに向かい一礼しました。

「ありがとうございました。」

おばあさんは、私が着付けさせていただいた寝巻きを来て、あの子としっかり手をつなぎ、光の中に消えて行きました。暗かったはずの周りは、キラキラ光る、何も見えない、ただ光だけの光景に変わっていました。

目が覚めました。体がとても楽になっていました。そして、不思議と涙が溢れ出て来ました。それからは、いつも自分の未熟さを力に変えていこうと思っています。おばあさんに、何かをお願いするとしたら、後ろ髪を引かれる心を残しそうな現場のときだけ、

「よろしくお願いします。」と、お空に向かって手を合わせています。

なので、色んな経験をさせていただいて、死んだら終わりとは全く思っていない私。多分、亡くなった人はちゃんと自分のお別れの時間を見ている。と、思っています。伝えたい言葉を、故人に向けて伝えていただくことは、おばあさんが教えてくれた「同情」について教えてもらった内容と共通するように、自分にも、相手にとっても、死を迎えても関係性は絶対に変わらないから、きっと有効だと思います。私はこの通りの性格なので、自分が体験したことを信じて欲しいとは思っていません。ただ、そういう経験をして、私はその瞬間に自分の知らない世界(あの世というよりも、心の広がりの果てしない世界)に逢い、考え方が変わる経験をして、教えてもらって、その度に出逢いが宝物になっているというだけの話です。

だからね、誰も見てないと思ったら、大間違い。絶対に誰かの目があるのだと思います。楽しいときも、苦しいときも、悲しいときも・・・。自分にも言い聞かせて、時にじいちゃんの団子をこっそり食べるとき、キョロキョロ挙動不審になりながら?自分を戒めて、有り難くいただきます(笑)

分からないことは、ただ一つ。おばあさんは、「一生懸命お願いして」と言いましたが、誰にお願いしたのかだけが未だ分かりません。お願いして、叶えてくれる誰かが居るということだけは、分かりました。叶えてもらえた理由は何だろう?と考えたら、おばあさんは何一つ、自分のためのお願いはしていない。本来、お願いとは、そういうことなのかもしれませんね。

何より生きている私たちは、亡くなられた方の生きた人生の中にあった大切なことに、本当は照らされて生かされているのかもしれません。