2016年2月3日

安置所からの移動

岩手県の面積は、四国4県を合わせた面積よりやや狭いくらいと言われているくらい、広いのです。移動時間を考えてみても、私の住む内陸の北上市から沿岸の陸前高田市、大船渡市、釜石市は市街地まで片道1時間半、大槌町までは2時間、山田町までは2時間半、宮古市までは3時間、洋野町までは4時間と、沿岸部へ行こうと考えたとき、片道だけでも車でそのくらいの移動時間が掛かります。

元々、納棺業は移動しないとならない仕事なので、移動自体は正直、苦になりません。が、一般的にはどうでしょう・・・。その人の生活の中に、それだけの移動がなければ、もちろん移動自体が勇気のいることなんだと思います。

東日本大震災では、あの大きな地震の後に停電が発生しました。建物の電気、信号機、電灯、あらゆる電気が付いていない。信号機が止まっているのに、普段なら居てくれるはずの警察官が一人も居ない。それはもう、心細いものでした。

そう、警察官はほとんど、沿岸で発生した大津波で被災されて亡くなった方々の捜索活動、そして瓦礫の中から見付けて、そこから出して、運んで、検視後に安置してもらう・・・。警察管轄の安置所に居たのです。

安置所の中は、大勢のご遺体が安置されていました。見付けてもらった人たちが運ばれてくるのは、大きな自衛隊車両や警察車両で、初期の頃にはほとんどの方が「身元不明」でした。

そういう状況の中で警察管轄の安置所を走り回り、何か所も回って自分の家族を見付けた人たちも沢山いました。ガソリンも手に入らない状況の中で、やっとの思いで内陸に運んでくることが出来た・・・・と思ったら、内陸の身内の人が掛ける言葉は、

「何故、こんなに時間が掛かったのか」

でした。「やっとの思いで連れてきたのに」と言いながら、大声を出して発狂して、気を失う方々も居ました。疲労困憊、PDSD・・・。気を失っても、記憶にうなされて汗をかいて目を覚まし、深い眠りにも入れない。被災者と呼ばれるご遺族の、そういう状況を沢山見てきました。

「まだ、お別れをされていないので、日を改めてお出でいただけないでしょうか?」と、間に入ることも沢山ありました。

「悪気はなかった・・・。 」肩を落として帰られるお身内に、「家族や近しい方を亡くされた被災者の皆さんのほとんどが、今は自分をとても責めている時期です。だから、掛けられる言葉が気に触れることもあります。(中略)どちらも、悪気は無いのだと思います。(後略)」と説明をしたことが、何度も何度もありました。

警察管轄の安置所で身元確認をされた方々は、地元の安置所に移動して、地元の方が管理者として管理してくれる安置所に安置されていることも、初期には多くありました。行かないと人数が分からない。声を掛けてもらって到着して、いつも入り口で立ち止まり、人数を見てショックを受けて、大きく深呼吸をしてから手を合わせて、安置所に入って行ったことを思い出します。

「どんな声を掛けたら良いのか」と悩む人は多いけど、そんな時こそ、そっと見守る方がずっと深い思いやりということもあるものです。それを伝えたくて、前置きが長くなりました。

想い出深いエピソードを最後に・・・。泣き疲れたお母さんに、しばらくして優しい息子さんが声を掛けました。

息子「お母さん、すごく疲れてるよ。だって、ミツエになってる。」(ミツエ?光恵?三恵?何の意味だろう?←すごく考え込む、私の心の中の声)

母「ミツエ?」(あ!やっぱりお母さんも分からなかったんだ!←私の心の中)

息子「目が、ミツエ!」

母「三重(みえ)でしょ?三重!」

息子「ミツエだよ!」

母「やだぁー!意味わかんない(笑)三重と漢字で書いてごらんよ!そういう意味でしょう?」

息子「あ!本当だね(笑)」

泣き疲れると二重の目が一重に見えたりすることもあるし、この場合は二重の目が三重になっていると言う意味だったようです。このように、笑いも出ます。疲れたり、泣き続けたりすると、そうなります。でも、お別れの現場で笑いが出る時、亡くなった方々が、励ましてくれているのかもしれないなって、そういう時はいつもそう思って故人のお顔を覗き込みます。そして、ご遺族と目が合って又、クスッと笑います。何が良いとか悪いとか、周りが決めてはいけないこともあります。情報を得る度に答えは変わり、経験した本人しか出せない答えもあると思います。言えることは一つだけ。一人一人がその時の精一杯で頑張った、それだけだと思います。

次回は、「安置所に行けなかったご遺族」その皆さんの思いについて、教えていただいて語れる範囲で、つぶやきたいと思います。

※被災者の皆さんから、震災のことをつぶやいて欲しいと多くご希望がありましたので、3月11日まではそうしようかなと思っています。