2015年3月15日

幽霊が見える⁉︎

当たり前のことだけど納棺は、死を迎えてから行われる。死は、想像や妄想の中にあるものではなく、実生活の中に起こる現実なので、普段から自分の悲しみや困難と、どのように向き合っているかで、死のプロセスや答えは、個人差がありながらも一人一人違う。だけど、心の中は人の影響は受けても、人に邪魔をされる筋合いもない、大切なものがそこにあるなら、自分の心の中は自由なんだから、一人一人の考えで良いのだと思う。

東日本大震災が発生してから、納棺にご縁の無かった方々とも、ご縁をいただくことが多くなった。自宅を流され町が壊滅し、大切な家族を亡くし、みんな一人一人今でも苦しんでいる。潜在意識の中には経験した東日本大震災がある。今でも「怖い」と話してくれる被災者の人は多い。

納棺が終わってからの遺族訪問、東日本大震災の経験者、大切な人の死を経験した人たちが最近、「幽霊を見る」と言う相談が実は、とっても増えている。本気で悩んでいるから、私も本気で向き合わなければならないと思っている。

心の中の潜在意識が起こすことで見る幽霊と、本当に見えている幽霊の違いを、多くの遺族としての立場で話してくれる人たちと、主に看取りをされている全国の講演時にご縁をいただいたお医者さん方々との会話で、最近発見してしまった私。だけど、遺族が求めるその解決策を、まだ見付けていない今の私は、はっきり言ってとても中途半端。だけど、死に携わる人たちの「幽霊」体験は、ただのオカルトでは終わらない、人間の持つ「いのち」の深さが存在しているものです。

311の日、19時半頃に外で片付けをしている私の所に、子ども夢ハウスに通う女の子が「女の人の幽霊を見て、怖い」と打ち明けてくれました。言葉の最後に彼女は「怖いから助けて」と言った。もう一人の女の子が、「人が居て、自分を見ている気配のある場所があって、怖い」と言った。「怖い」や「助けて」は、SOSだと思うので、真剣に話しを聞いた。この子たちの人生の中に、東日本大震災の津波を見たことでの潜在意識のショックに、幽霊を見て怖いと言う現実が上乗せされてしまうのかと思うと、切なかった。

話を聴き、私は腕を組んで、目をつむり、うつむいて、しばらく悩んだ。

「そうだ、お坊さんがいる!」

「ちょっと待ってて。お坊さんに、相談してみるからね。」子どもたちに話し、お坊さんの所まで走った、走った。この年で、こんなに走れるものかと、自分でも驚いた。ただ、子どもたちの安心した顔が見たかった、それだけだった。

帰る支度をされているお坊さんの所に着いて息が切れる中、今までのことを話した。最後まで聞いてくれたお坊さん。

「今、準備をして行きます。」

走って子どもたちの所に戻り、お坊さんを待った。子どもたちは、その怖い場所が何処なのかを、お坊さんに真剣に説明をした。二人とも、同じ場所を指していた。

お坊さんが二人、お経を二つ上げてくださった。

初めて体験する焼香を、子どもたちは気持ちを込めて行っていた。

お経を終えて、お坊さんが子どもたちにお話をしてくれました。

「東日本大震災で亡くなった人たちも、きっと最後の時まで生きていたかったと思うんです。僕が思うに、魂の本体はもうちゃんと極楽浄土に居られてね、その生きていたかったと思う思い、何らかの事情があって残した思い、その「思い」だけがまだこの世に残っているのかもしれません。

僕の師匠のお坊さんがね、檀家さんと恐山参りに行った時の夜、お坊さんのことを「方丈さん」と呼ぶ宗派もあるんだけど、

「方丈さん、トイレ貸して」

と、三人の人が立て続けに、眠りに入ろうとしている、一人部屋の方丈さんに話かけたんだって。でも、方丈さん、

「あれ?部屋に鍵をかけたはずだったけど?」と思った時、自分の左腕の中に、小さな子どもがいる気配がしたんだって。それで方丈さん、横になったまま、その子の頭をよしよしと撫でると、気配が消えたんだって。そして、寝返りをうったとき、

部屋中にたくさんの人が居て、みんな方丈さんに向かって、頭を下げていたんだって。方丈さんは、

「そうかぁ、お経を上げて欲しいのかな?」と思って、お経を上げ始めたら、どのお経も途中で上げられなくなっちゃう。宗派に関係なく、お坊さんが毎日上げているお経を、途中で上げられなくなるなんて、あり得ないことなんだけど、方丈さんは、このお経じゃないお経を上げて欲しいのかなと、色々お経を上げたんだって。最後まで上げることが出来たお経は、二つ。今日上げた二つのお経だったんだよ。この二つのお経の意味はね、

一つは、「大丈夫だよ、心配ないよ」と言う意味のお経。

二つ目のお経の意味はね、「その一人一人を包み込むお経。」

津波で悲しい経験をした人に力尽くで払ったり、怒ったりはしません。ここにいる、事情があって気持ちを残している人たちを、お坊さんはみんな連れて帰るから、連れて帰って、極楽浄土の自分の本体と、一体になってもらえるまで、ずっとお経を上げているので、これからはもう心配ないよ。」

焼香をさせていただきながら、涙を流して手を合わせる子どもたちに、安心出来る空気が戻って来ていました。「幽霊」と表現をする時、もっと深い所で安心を求めていることがあります。最も重要なことが、奥の奥にあります。子どもたちのほっとした表情は、何よりでした。

子どもたちに「布施」の話をしました。お坊さんがお寺を留守をするのは、地元の人が不安になるから大変なこと。その中で、お坊さんがここに来てくれている意味を伝えました。昔は布を納めました。現代の大人は、お金を納めます。じゃ、子どもである自分たちに出来る御礼は、どうする?と、一緒に考えました。子どもたちは考えた結果、お手紙を書くことになりました。

今年の311は、そういう時間もありました。だけど私は思います。幽霊が、ありったけの笑顔で現れてくれたら、誰も怖くないのにな・・・と。ありったけの笑顔で過ごしてくれる、幽霊が増えてくれることを願います。