2013年8月18日

終戦記念日

戦争を知らない私達世代が、戦争を知っている年輩者から体験談を生で聞ける時期と言うものも、限られている時間なんだと今年は多く教えてもらった。父方も母方も、親戚の中では何人も戦争に行って帰らぬ人となった。小さな頃の昔は少し怖かった遺影の写真も、今は大人になって改めて見る遺影を目の前に、自然に手を合わせている自分が居た。「兄さんに会いたい」ずいぶん年を取って腰がすっかり曲がった「ばっちゃん(おばあちゃん)」が、若い頃の記憶を思い起こし、今でも涙を流す。ばっちゃんは、小さな争いごとも、ずいぶん嫌がる。「自分が我慢すればいいこと」と、傷付くことを一手に引き受けて生きている。ばっちゃんは、いつだってそっと傍に居ることが出来る人で、悲しみを持っている人にすぐ気付く。小さな頃から「ばっちゃんって、すごいなぁ。」と思っていた。お年寄りの持つあたたかさは、悲しみを経験した数の分、深いのかもしれない。私の年齢では到底辿り着けないことなんだと理解しつつも、いつだって気持ちを一緒に感じたいと思う。納棺の時間も同じで、納棺の時間は特に年輩の方が多く、中途半端なものは、すぐに見破られてしまう、現場にはそういう厳しさがある。ごまかしなんて、全く通用もしない。現場で教えていただく深さを身に染み込ませて培い、教えられたことを大切にして、いかに年を重ねられるかは自分次第。知恵も勇気も決断力も忍耐も、実は全部、現場のお年寄りから学ばせていただいた。先人達の生きた道を、次世代を引き継ぐ私たちが、子ども達と言う更なる次世代に何を残せるか。そういうことを背負っている責任があるのだと言うことを、又考えていた一日でした。