2013年8月31日

置かれた環境の中から生まれるもの

「生きる」ということだって、同じことだと思うけど、限界に向かわなければならないのも「復元」の時間です。今の置かれた環境の中で、自分の知恵を振り絞って、「違う、そうじゃない。」と、「こうかな」「こっちかな」と頭の中の引き出しを探す。何度も頭の中でリセットして、組み立てていく一分間の時間がある。故人と対面して、すぐの時間。触れてみなければ分からない、生きた証拠の「シワ」は、故人の人生の中の「今」を教えてくれて、背中を押してくれます。自分に言い訳をしないことと、追い詰められた今だからこそしか、出来ないことがあると、思う。火葬までの限られた時間の中で、自分に与えてもらったミッションは、目の前の人の人生の、形のある最期であること。その責任を果たせるか、どうか。遺されたご家族の未来を背負っている、「今」に、どれ位満足をしてもらえるかが、未来につながる一歩。ご家族に生きて欲しいと願いながらの時間です。生前のお姿に戻った時に、ご家族が「あれ、今、胸元が動いた。生き返ったんじゃない?」と、騒ぎになることもある。「そんな訳、ないか。そうであって欲しいと思った気持ちが、そう見えたものだったのかなぁ〜。」ご家族が故人の手を握る。納棺の時間は不思議と、故人の人生の結果を褒め称えることよりも、そこまで行き着いた道のりを想い出とすることが多い。人生とは、生きるとは、そういう話になります。死の現場には確実に「生きるために」の話が沢山あって、皆さんと共有させていただく時間の中に、故人が笑顔で嬉しそうに、一緒にいるんじゃないかと思えてしまう不思議な雰囲気があります。亡くなってもその方の雰囲気は確実に残っていて、きっとみんなでそれを共有する時間を、昔の人は「納棺」として、残してくれたのかなぁ。と、現場を思い出しながら感じている今日この頃でした。o(^_-)O