2013年5月31日

積み重ねと確認と自己責任

現場に居る時は、今でも神経を張り詰める。今まで、私には自分の納得する技術を教えてくれる人は一切居なかった。だから、自分で毎回考えて、悩んで、「どうしてこの色が出て居るのか」「何故、この死後変化が起きたのか」「変化させずに火葬を迎えるために、どうしたらいいのか」「ご家族は、何を求めているのか」「亡くなったご本人は、どんなお別れを望まれているんだろう」ご家族が故人と過ごせるように、安心出来る雰囲気をどうしたら提供できるのかと観察して考える事が多かった。それは、大切な家族を亡くされたご家族を目の前にして、自分の限られた時間の中で出来る事を探していたからだと思う。故人に対面し、泣き叫ぶ人。死が現実として認められず故人に近づけない人。故人の手を握り、「起きて‼お母さん‼」と叫ぶ子どもさん。毎回の現場で人の「泣く」姿に直面すると、「せめて、緩やかな涙に変わってくれますように。」と願う現場は多かった。話し方を色々工夫して、本当に手探りで本当に苦労してやっていくしかなかった毎日だったと思います。復元した時に「ここまで戻せるなら、生き返らせてくれませんか?」と、子どもさんを亡くしたお母さんに叫ばれて言われた時に、何も言えない自分が居ました。その言葉がとてもショックで、戻す事は、復元は何を意味するのか・・・と、一人悩み続けていた時に、そのお母さんから電話をもらって、ゆっくり話した時間がありました。「子どもを復元してもらって、今の自分がある。ありがとう。」と、泣いて言っていた。そして「どうしようもない時に、この時間に希望を叶えてくれる人が居て良かった」と言われた。変形して変化した子どもさんを、私も必死で復元した時間でした。そのお母さんとは、今も仲良しで、遺族ケアはこうして、ご遺族の希望からスタートしました。現場での、人が死を迎える事も、苦しみもがく涙も、未だ慣れることも無く、やっぱりそれに慣れたら復元師を辞める時だと私は思っています。現場は、自分に問うことを忘れると、自己満足に走り易くて危険であり、全てが当たり前になると、色んな事が人のせいにもなり易い。人に評価されることを求めることよりも、もっと大切で見落としてはいけない事が現場にはある。潔く、精一杯を毎回、目指します。結果も本当に大事だけど、プロセスの深い観察がもっともっと出来るように、出逢いを大切にしたいと思っています。参加型納棺を始めたすぐの時に、現場で生花が小さいとかどうのとか、誰々が来てないぞ、世話になったくせにとか、あいつはダメだとか、こいつもダメだとか、人の悪口をすごく、ずーっと言っている人が居て雰囲気が悪くなった瞬間があり、なんと、そこに居たおばあちゃんが、「あんたは人を評価出来る程、たいして立派な人間なんだなぁ(笑)自分が相手の立場になってみてから、そういうことは言うもんだ。いい加減にせんかい。あのよぉ、自分の殻を脱げば、たいして楽になるぞ〜」と言っていた。そのおばあちゃんがお孫さんに、「本当に立派な人は、愚痴も言わんもんだ。」と言った。私も思わず「なるほど〜」と言った。おばあちゃんが、「追加して言うなら、立派な人って言うもんは、自立してるのよ。自立って言うもんは、自分の足で立とうとして頑張っている人の事だ。いいか、オラみたいな人間の事だ(笑)」と、納棺の時間にみんなを笑わせてくれた。そして、おばあちゃんが言った。「この人(亡くなった方)は、そういう人だったからよ、この時間をみんなで大事にするべなぁ。」いつだって、お年寄りはすごい。布団を囲んで、みんなが一つになった時間でした。状況により、言葉は様々でも、納棺の時間には、とても素敵なお年寄りから色んな事を教えてもらう事も多い。やっぱり、参加型納棺をしようと思った時間には、必ずお年寄りが居ました。「亡くなった人が元に戻ること」「家族やみんなで着付けたりする事」「想い出に残る時間が、故人を想う事につながる時間」ご家族が求める参加型納棺は、そうやって今も、条件を確認しながら現場で育ててもらっています。きっとこれからも、大切な事を守りながら、進化してして行くと思います。感謝です。