2013年7月13日

「心を込める」と言うこと

「心を込める」と言う言葉を、最近よく使うようになった。「どういう意味?」と、子どもさん達はストレートに聞いてくれる子も多い。「心を込めてもらってありがとう。」と、納棺終了後にご遺族から言っていただくことも多い。先日の納棺で、お参りに来られて居た、これまたお年寄りと「心を込める」ことの意味について話した。で、今日、フッとその時間を思い出して、ちょっと考え込んだ。「勇気」と「心を込める」ことは比較的私にとっては、つながるもの、一緒なのかもしれません。とあの時話した。「心を込める」ことの自分なりの意味は、相手の話を伺って、一番必要とされている動きの流れの中に、自分の最も大切にしているものを込める、尽くす、奉仕などの言葉が当てはまる様な気がしていて、プラス、見返りや評価は全く必要無い状態と考えていて、「勇気」は無意識の内に全てのこだわりが無くなって、今に向き合う一歩を踏み出していた、と言う結果。一歩を踏み出すと、山あり谷ありの中で、今まで生きてきた土台が助けてくれる事が多い。「あの経験は無駄じゃなかったんだぁ。」過去の困難や孤独、苦しみの経験が助けてくれる。生きていれば、「あぁ、どうしよう。」と言うことに直面することは比較的多くて、そういう時こそ、自分のフィルターを通してから、言葉に変えていく作業が実に大切にしてきたこと。納棺の時間で考えれば、内陸の納棺でも、沿岸被災地の方々の参加は多い。震災前からの元々のエリアでの被災地沿岸納棺でも、「まだ、家族が見付からないの。帰って来てくれないかなぁ。」そう話す人は、本当に多い。被災地に入れば、海に向かって拝む方の姿を見かけることもある。未だ、岩手県は1000人以上の方が行方不明であることが現状です。大切な人を待つ人達はまだまだ居ます。「もうすぐ、お盆ですね。」と心を込めて声を掛けると、「うん、楽しみ。待ち遠しい。」と嬉しそう。ご遺族にとって、亡き人とつながれる希望として、お盆やお彼岸は存在している。生きて行くために必要な伝統や文化に支えられ、ご遺族は生きる。苦労や、困難や、悲しみや、もがいて泣いて、後悔することを経験すると、みんな得る何かがある。何だろう、きっと、欲や執着が無くなる人が多い。困っている人を見つける目が研ぎ澄まされる、そういう人達を沢山知っているから、故人を前にして、混乱されているご遺族の傍に居させてもらえることが出来るのかもしれない。心情の移行は、みんな経験する。私もそうだった。苦しい、切ない、孤独、困難、思い悩んで、今の人生がある。亡き大切な人を思い続けることで、自分の情緒が、潜在意識が安定する。安定と不安定は実に仲良しで、不安定な時は自分をそっとしておいてあげることを覚えた。納棺の時間の中で、人生の何かを教えてもらう時、「亡くなった方ではあるけど、この方の人生の最期に出逢えたご縁に対して、心を込めること」を心掛ける。人生色々だけど、全てがご縁だと思って考えて行ければいいな、と思っています。納棺の時間に、100%じゃないから、完璧じゃないから、未熟だから、それがその人の個性。だから、誰でも死ぬまで勉強と、お年寄りが教えてくれます。すごいなぁ、お年寄り。感動して「南無南無」と拝むと、「拝むな〜‼拝むな〜‼(笑)」と手を右と左にブンブン振るお年寄りがまた、チャーミングです。出逢うって、素敵なことですね。おやすみなさぁい。