2013年7月4日

死を迎えても存在は生きている。

   「死」は、現代では忌み嫌われるものだったり、「不幸」と呼ばれることも多い。ご遺族は時にまわりにそう言われて、傷付くことがある。切ない事だと思う。「死」は、その人の人生そのものを現すもの、意味するものなんだと、私は思います。で、あれば、「死」は「不幸」では無くて、「どう生きたの?」につながるべきであるのではないか、と言うことをずっと思っています。現場に居ると、ご遺族と「死」についての話になることも多い。決して目をそらせない現実に起こる出来事で存在するその事実の中に、不思議な温もりに包まれる事がある。それは、亡くなったはずの、その方の想い出によって出てくる雰囲気。それが、現場を包み込む温もり。絶対に出してはいけない雰囲気は、「そう、あるべき」という雰囲気。あるべきという考えは、けっこう雰囲気を壊す。「あぁ・・・。」と、ならないように間に入って架け橋になれるか、がミッションだと思います。子どもさんが親御さんとのお別れの時、親御さんが、子どもさんとのお別れの時、祖父母とお孫さんのお別れの時・・沢山あるけど、どれだけこちらも尽くせるか、形に出来るかが、大事な事がある。以前、事故でお孫さんを亡くしたおじいちゃんがいらした。天災で、お孫さんを亡くしたおじいちゃんがいらした。どちらも、小学校の交通安全の旗を振る「おじちゃん」と呼ばれていた。お孫さんを亡くして、全く口も聞けなくなってしまって、とにかく自分を攻めていた「おじいちゃん」。心配した。訪問も通った。笑顔で手を振ってくれて、正直泣けた。お会いすると「笹原さん、孫とかぶる。(笑)」おじいちゃん達にそう言われて、頷いた。想い出してくれる、その人の心の中に亡き人は生き続けると思う。出来れば、忘れられずに誰かの心の中に生きていて欲しいと思う。そういうお手伝いが、これからも出来るように、頑張ろうと思った。生きること自体がすごいこと。亡くなった人はきっと、そう言ってると思う。現場で教えてもらう事は沢山ある。私も現場に伺う度に育てていただいていると思う。「お酒飲むのを復活したよ。孫が生きていたとして20才になる歳が来たら、仏壇にお酒を備えてね、乾杯をしようと思ってるんだ。孫が生きていた時に、約束したから。」おじいちゃんが言っていました。言葉は続きます。「お酒を飲むための、そんな言い訳は聞きません。って、女房に言われた。(笑)」そう言っていました。納棺のあの時に喧嘩されていたご夫婦も、亡くなったお孫さんの想い出話で仲直り。体は無いけど、存在は、ちゃんとある。悲しみは、決してゼロにはならない。想い出があるから、絶対にならない。想い出と一緒に生きること、それをみんな、やっぱり探しているのかもしれないと、そう思った。また、会いたいなと思っていました。さて、今日の納棺の現場も終わったので、あと3時間は寝れるかな。おやすみなさい。